「 ゆるし 」。不幸に遭っても人を ゆるす ことの二つの意味

一つは、相手を憎むことによって、自らの肉体と精神をむしばむことをやめること。

一つは、ゆるし の学び。その不幸は、ゆるし を学ばせるための試練かもしれない。

人生の出来事にいいも悪いもない。

すべては学びの試練。

もしかすると学ぶために、自ら不幸を招き入れているのかもしれない。

普段からの無意識の言動によって。

憎しみの感情がわいても「 事実はそうだ。しかし、ことの大小、カタチは違えど不本意でもあれ、自分も似たようなことをやっている。

そしてなにより、これは自分の学びのためなんだ 」

と考え、ゆるし 手放す。

このとき、「( 自分の価値観からみて )こんなひどいことをする相手にはいずれ罰が下るだろう 」と考えてしまうかもしれない。

しかし、そのような考え方は、自らの思想に影響を与え望まない人格を形成してしまうだろう。

簡単にいうと、無自覚に性格がわるくなる。

人を ゆるす ことは、自分のこれまでの言動をまとめて認めること。

ゆるす ことによって人それぞれ人生のテーマに気づき、次のステージへと進む。

人はみな、紙一重。試練を与えあう存在なのかもしれない。

そして学ぶまで、試練は訪れる。

すべてを ゆるし、奉仕にフォーカスする人生を選べたら、充実した人生を送れるのかもしれない。

そして、ゆるし もしない、憎しみもしない境地に。

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